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龍雲寺住職のひとりごと

 龍雲寺住職 くろゆりの会 代表理事 髙松芳明 タカマツ ホウメイの独り言です

法話・ひとりごと・つぶやき

不安と不満
コロナウイルス蔓延により社会は不安と不満に充ちています
心の悩みは多々有り不安の形と不満の形は違えども大きくなっています。
心の苦しみを聞く方は常に不安と不満を抱えています。
最近思うことは不満は過去のもの不安は未来のもの!
過去を振り返る毎日、過去を悔む毎日、過去にとらわれた毎日
過去は不満の再生工場です。
どうでも良い!
過去は過ぎたもの!
とらわれても意味はない!
不安は夢見る毎日、未来を怖がる毎日、未来に閉ざされる毎日
未来は不安の生産工場です。
どうでも良い!
未来は作るもの!
夢見ても意味はない!
不安も未来も「空」
であって「苦」ではない!
今の結果、今の積み重ねこそが大事です
過去を捨て去り未来にしがみつく事を止めたとき人は心の解放、安心(あんじん)を得れるのではないでしょうか?

 

人生のあゆみかた
人生とは、私だけで歩めるものでしょうか?生まれたときから人は周りの人生と関わりながら生きていきます。
仏教では縁を説きます。
お遍路では同行二人といって自分と空海聖人が同一であること一人で歩むべきで無いことを示します。
私の人生は私のものであると同時に私の周りの人生であります。
皆が他者を自分の人生と捉えたときそこに縁が出来ます。
苦しんでいる自分の人生は隣の人生です。
自分が苦しむように周りの人や子供や親が苦しんでいます。
ありふれた言葉ですが幸せは共有する事で2倍になり悲しみは共有する事で半分になります。苦しむ自分があれば苦しみを周りに背負ってもらいましょう。
よろこびや楽しみは分け与え共有しましょう。
我々は決して一人ではありません。縁とは必然です。
有意義な人生は周りも有意義にします。
苦しい人生は理解してくれる人がいれば救われます。
大事な人の苦しみを理解し受入れることからはじまる縁があると考えます。
高い壁があれば乗り越える必要はありません。
壁を避け一緒に遠回りすればそこに縁があるのではないでしょうか?

主人公
主人公とは物語の主役です。
仏教では誰しも主人公だと考えます。
オリンピックや講演、イベントにはよく主人公がいます。その主人公は物語(イベント)の主役として主人公といわれますが、仏教では誰しもが主人公とかんがえます。
人生という物語の主役は私本人です。自分を肯定し人生の主人公になることで悩みから解放されることもあるのではないでしょうか?我々は他人を受入れ認めることが大事だとおもいますが、先ずは自分を受入れ認めることで人生の主人公は私だと思うことが大事ではないでしょうか。
個人が皆主人公であることを認識して悔いの無い人生を歩む。他人もまた主人公であると認め受容することで共和ができると考えます。人生は変えがたい貴重なものと理解して精一杯、大往生(命を無駄なく賢明につとめる)することで誰しもが主人公になり貴重な命、魂にめざめることが大事ではないでしょうか?


 

自分をゆるす心

我々は日々の生活の中で様々な間違い失敗を致します。

または、時が経ってから、ああすれば良かった、こうすれば良かったと思うことがあるでしょう。仏教では懺悔(さんげ)と言って日々悔い改めることで仏様にゆるしを請い次の一歩を歩むことを教えとしています。これは言い換えれば過去の私の出来事、思いを仏様がいつでもゆるしてくれると言えます。人生は失敗の連続だからこそ、生きることは苦(四苦八苦)とされます。ですが仏様の心はいつでも我々をゆるして下さいます。言い換えれば仏の心(慈悲心)がなければ人生を歩むのは難しくなりますその結果我々は次の一歩を歩み出すことが出来なくなり思い悩んでしまいます。人生を悔い、悩み、悲しむのが仏教の教えではありません。悩んだ先、悔んだ後、我々一人一人が仏の心を持ち自分をゆるす事が出来たとき、また次の一歩を歩み出せるのではないでしょうか、自分をみつめる日送り他人を見つめる日送り、その結果他人をゆるし自分をゆるす仏の心を持ち人生を歩む、それが仏の道、仏教だと考えます。

尊い手紙(レター)
不登校・ひきこもり支援の会である参加者がひきこもっている息子さんに手紙を書いているお話を聞きました。
その一月前、悲壮な面持ちでお寺にこられたその方は、ひきこもる息子さんの心配とご自分のこれまでの対応の反省をお話下さいました。子供を責める自分と自分がいなくなってからの息子さんの心配をされ、対話と謝罪のような場がほしいと切実に話されました。座長の田中さんは会話が難しければ手紙はどうですか?と進められ、内容は楽しいもの、もしくは近況報告などにして下さい。と言われました。
私もそれは良いと思い、では定期的に書くことをお勧めしました。
その後お父さんは昔の楽しい話しやご自分の反省を手紙で息子さんに送ったところ今まで繋がりのなかった息子さんからメールや返信が来るようになったとお話しいただきました。
普段顔をあわせての会話では言わなくても良いことを言ってしまい意思疎通ができない事でも手紙では有効になることを再確認させていただきました。文章には行間があります。手書きのものであればなおさら文字以外の感情や想いを感じるのではないでしょうか?手紙(レター)は見直すべき文化であり非常に有効な意思疎通手段だと思います。
悩む当事者に手紙を出す時の注意点は決して当事者を否定しない、早く出てきて、心配してますといった内容は当事者を追い込むだけになります。それよりも相手を受入れ(受容)、昔の楽しい想い出や反省など当事者が受入れやすい内容を書くことが有効と考えます。

お盆のいわれ

お盆は古くから伝わる日本独特の仏教行事です。風習としては学校の夏休み、会社の盆休みを利用して郷里に帰ってのご先祖様のご供養が一般的ですが、お盆の意味は仏教的には孝順心と慈悲心の実践をする期間という教えです。地方の風習は様々ですが一般的には13日が迎え盆16日が送り盆とされ北海道では8月の旧暦、内地(本州)では7月の新暦で行なわれます。

孝順心とは、親、ご先祖様を想い供養し、今の自分の命に感謝し孝行の誠を手向ける教えです。慈悲心とはこの世に存在する全ての人や生き物に対していつくしみの心を起し、思いやりの心を育てるという教えです。ともすれば孝順心ばかりが強調されますが慈悲心の実践も大切な2本の柱の一つなのです。

また『お盆』は古代インドの言語サンスクリット語のウランバーナ盂蘭盆(うらぼん)が正式な仏教用語で意味は倒懸苦(とうけんく)さかさまに吊り下げられた苦しみ、とされ私達の考え方、行いが仏様、仏教の教えで見たとき逆さまであって誤りであることが多く、それ故に苦しんでいるのが人間の姿であるという教えです。

親、ご先祖様の恩にめざめ、命の尊さに感謝し慈しみの心を育てるお盆は、真心をもってご先祖様をお迎えしおもてなし、全ての命を尊び敬うものでありたいものです。

以上禅林寺だより より抜粋

日本人は古来より親、先祖を想い、縁や義理人情を尊びことを大切にしてきました。

現代の合理的な考えでは、ともすれば過去や未来、周りの人の想いなどが置き去りになってしまいます。不合理で面倒な事でも人が心の真の豊かさを得る為には大切にしたいものです。親は子に『迷惑になるから供養はしなくて良い』『私達の事は気にせず自由に生きなさい』と言い、社会においては少数派の排除や現在の利便性ばかりが求められています。私達が正しいと想うことが本当に正しいのか宗教儀礼の簡素化や負担の軽減が子供の情操教育(沢山のものに触れ心を豊かにする教育)を妨げていないか、人の心を貧しくしていないか考える場としてのお盆があっても良いのではないでしょうか。 文責 龍雲寺 高松芳明